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■北の国から20006

【タイトル】 満ちる思い
【作者】 北の国から20006

 −−カタン−−
 物音が聞こえ、ふと目が覚める。
 自分はこんなに眠りが浅かっただろうかと思いながら
隣を見ると、そこにあるはずの彼の姿はなかった。
 再び寝てしまっても良かったのだが、
なぜか彼のことが気にかかり、ベッドから抜け出した。
探すとは言っても、彼がいるところなんて
決まっているのだけれど。

 バルコニーに続く扉を開けると、深夜特有の
冷たい空気が体を包み込み、思わず吐息がもれた。

 「やあ、起こしてしまったかな」

 予想通り彼はいつもの場所に寄りかかっていた。
彼は私に気づくと、本に落としていた顔をこちらに向け
そうつぶやいた。
物音で目が覚めたことは確かだけれど、私は
彼に気をつかい、首を軽く振ることでそれを
やんわりと否定する。

 「なぜかな、今日は少し眠れなくて」

 彼はそう言うと、ゆっくりと空を仰いだ。つられて
私も目線を上げると、爛々と輝く満月と少しばかりの
星々がそこにあった。
あまりの美しさに、溜め息混じりで綺麗と
つぶやくと、彼がくすりと笑った。先の言葉は
確かに私らしくない台詞だったけれども。
非難がましく彼を見つめるが、彼は
微笑みながら応えた。

 「この本の作者が、ある言葉を
"月が綺麗ですね"
って訳した逸話があるんだ。それを思い出してね」

 「どんな言葉?」

 刹那の逡巡の後、彼は私の目をまっすぐと見つめる。

 「....."愛しています"」

 私は、彼の、その文豪の答えに耳の先まで
赤くなるのをとめられず、体温が上がるのを感じた。
文豪の、意地悪で情緒的な言葉に私は踊らされたのだ。
それもよりにもよって彼の手の上で。
あまりの恥ずかしさに目を軽くそらすと、彼の耳も
赤くなっていることに気づいた。その瞬間、安心と
喜びと羞恥の綯交ぜになった気持ちになる。

 彼も私も所在なさげになったため、私はすこしばかり
にやつきながら彼の隣に寄りかかる。
彼が何も言わないことが、昔も今も、そしてこれからも
彼の隣に私はいてもいいのだと思える幸せが
そこにあった。

 「あの曲、聴きたいな」

 星空を見上げ彼に告げる。しばらく後にいつもの
あの曲が聞こえてくる。まさかハーモニカを
持ってきてるとは思っておらず、
意地悪を返すつもりで言ったのだが、
彼はここまで予想してたのかもしれない。

 この曲は彼との絆ともいえる曲だ。悲しいこと、
嬉しいこと、そして普遍的な日常のすぐそばにこの曲が
あった。そのどれもがすべていい思い出である。

 曲が止まったことに気づき横を見ると彼は
心配そうな顔をし、私の顔に手を近づけた。
そこで私は涙を流していたことに気づく。

 「大丈夫、だよ」

 今晩の私はまるで別人のように感傷的すぎる。
ならばこのまま別人には、普段の私には
出来ないことをしてもらおう。
私は、いまだ私の顔に触れている彼の手をとり、
彼に近づく。

 これもすべて綺麗な月のせいなのだ。

 −了−


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