<プロローグ>
蝋燭の灯の下で、私は葡萄酒を嗜んでいた。
どこからか隙間風が吹いているのか、炎が揺らめくたびに、私の影が陽炎のように踊る。それは胸に巣食っている得体の知れない不安を象徴しているようだった。
‥‥柄でもない。無骨な自分にそんな感傷は似合わないと自らに言い聞かせる。しかし認めない訳には行かなかった。確かに私は気弱になっている。かつて幾多の悪魔を調伏させた悪魔祓師テオドール・マイスともあろう者が。
今朝、手紙が届いた。「寺院」の総本山からだ。
『ランドル村教会司教テオドール・マイス。汝を任から解き、本山への帰還を命じる。なお例の秘本を必ずや持参する事。これは寺院長による至上命令と心せよ』
──やはり本山は諦めていなかったようだ。例の秘本。それは目の前にある黒き魔道書のことを指している。
「ズラフ秘本」と名付けられたこの本には、悪魔との契約によって得られた知識が克明に記述されている。とりわけ人体の仕組みを解明したくだりは、身震いがするほどリアルに描かれていた。記述者は、何人の罪無き人々を切り刻んだことか‥‥。
たしかに秘本の価値は計りない。医学はおろか、あらゆる知識と技術を網羅したこの魔道書を利用すれば、「寺院」はこれまで以上に強大な発言権を手に入れられるだろう。知識そのものに善悪の区別など無い。手に入れた経緯に問題があろうが、使えるものは使う──そうしたプラグマティズムには共感できなくもない。
しかし「ズラフ秘本」の冒頭に書かれた一節が、私の不安を煽り立てたのだった。
『昏き深淵の竜に捧ぐ』
間違いない。これは呪いのキーワードだ。この文句から始まる秘本の文章は、強力な暗示の効果を持つように構成されている。結果として、読む者を発狂させてしまうのだ。質の悪いことに、発狂しているという自覚の無いまま。
この強制暗示の呪いは、恐らく「星」を利用する太古の呪術を駆使したものだろう。ペンタウァで普及している「七惑星の魔法」と同系統のものだ。かの名高いソーサリアンならともかく、星の力を否定してきた「寺院」の人間に、太刀打ちできるとは到底思えない‥‥。
ステンドグラスの天窓が、カタカタと揺れた。
その音が、思いに沈んでいた意識を現実に引き戻した。傍らに置いていた戦槌を取って、天窓に向かって呼びかける。
「懲りずにやって来たか‥‥魔道師ゲランよ」
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天窓を揺らした主は、真っ黒なカラスだった。夜の闇に紛れ、赤い目だけが私の方に向けられている。耳障りな鳴き声を上げてカラスは語りかけてきた。
「諦めるとでも思ったのか、テオドール・マイス? 貴様に奪われし我が秘本、取り戻すまでは何度でも現れようぞ」
カラスは机の上にあった魔道書を見て、ニヤリと笑った。
使役しているのは魔道師ゲラン。かつてこのランドル村で、秘本の知識を利用して人体実験を繰り返してきた男である。
数年前「寺院」の総本山から派遣されてきた私は、ゲランを撃退してズラフ秘本を取り上げた。といっても、ゲランは秘本の著者ではない。役者不足というものだ。せいぜいズラフ秘本の呪いに操られた小物といった所だろう。
「素直に返せば良いものを‥‥。貴様が頑なでいる限り、この村から災いが絶えることは無いのだぞ」
「お主に渡せば、他の村で同じことが繰り返されるだけだ。ならば目の届くところに置いておく。どうせお主の力では私に勝てんよ」
「言うわ、この破戒坊主が。知っているのだぞ。貴様のクビも、時間の問題だということをな」
カラスがまた耳障りな声で鳴いた。
私は返答がわりに、戦槌に神聖なる“気”を込めてカラスの方へと振った。使い魔にされた鳥ではなく、使役していたゲランに直接与える精神攻撃だ。ギャッと喚いてカラスは天窓から消えた。
いつもながら懲りない男だ。
それにしても手紙のことを何処で知ったのだろう。小物風情かと思っていたが侮りすぎていたか。いずれにせよ、断じて渡すことはできない。
──しかし「寺院」の本山に渡せば、さらに恐ろしい事態になるだろう。呪詛に操られた指導者をいただく巨大な宗教組織など、悪夢以外の何物でもない。
かといってペンタウァ王の手に委ねるのもためらわれる。
第三の「燃やす」という選択肢は、実行できなかった。
したくても出来なかったのだ。私もすでに、暗示に掛かっているということだろう。
自覚があるだけ、マシという所か‥‥。
『貴方は真面目すぎるのですよ。一人では何事にも限界はあります。
組織の力を当てにするのも時には必要ではないでしょうか?』
友の声が脳裏に響いた。ペンタウァの王都で小寺院を任されている有能な男だ。彼ならば信用できそうだが「寺院」の中枢にあまりにも近すぎる。やはり自分一人でなんとかするしかない。
葡萄酒も残り少なくなってきた。
秘本の呪いに取り込まれぬよう、父なる神に祈りを捧げてから休むとしようか‥‥。
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