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【タイトル】 「運命」に対して
【作者】 ある新聞への匿名の投書

 「運命」という言葉。

それはロマンチックなものだと言われているけれど、

私はこの言葉が好きではない。

なぜなら、この言葉は、

人の過去を一言で言い表せてしまう。

その上、時には努力などといった、

人が持つ力を蔑ろにするからだ。

 

 紅のクオーツによって火の動力魔法が組めるように、

七耀石の色にはそれぞれの意味がある。

「意味」は過去の積み重ねによって生じるものである。

そのため「意味」はその本質を表している。

同様に、人にもそれぞれの過去があり、

「意味」があると私は思う。

「軌跡」とも呼べるだろうか。

 

 しかし、たとえば、

百日戦役で亡くなった方々に対して、

「運命だった」と言えば、

それで片づけることができてしまう。

「理由」を奪うといってもいい。

 

 時代の「運命」によって動力革命が起き、

百日戦役があり、不戦条約が作られたのか。

ならばこれから起こることもまた「運命」であるのか。

すべての「理由」は「運命」によるものなのか。

少なくとも、自分自身に関して言えばそうではない。

はじめは「運命」を女神が決めていたとしても、

人にはそれを変えられる力がある。

 

 リベールの異変での遊撃士たちの活躍は耳に新しい。

このことは人が「運命」などに縛られるような

存在でないということを示してくれたと私は考える。

 

 私たちは「運命」によって生かされているのではない。

必死になって生きてきた結果が「軌跡」なのである。

女神と時の運によって命を与えられたとしても、

自らの未来は、すべて女神が決めるのではなく、

自分次第なのである。

 

 結果全てを「運命」という者も当然いるだろう。

「運命」とはそう言えてしまう言葉なのだ。

答えは女神のみぞ知る、といったところだが、

もし、自分の「運命」を変えたいと願うなら、

自分ができることから始めることだ。

 

 自分の運命をより良くしてもらうために女神に祈る。

これはいたって普通の事だろう。

ただ、自分が何も行動しないのでは、

女神も耳を傾けてくれることはないのではないか。

行動こそが「意志」を表す最たるものなのだから。


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