■hino
屋根の出窓に降り立ち少女はふわり腰を下ろす。
風にそよぐスミレ色の髪。見下ろせば何気ない朝の風
景で、ある貴婦人が仕事に行く夫を送り出している。
「今日も幸せそうね……」
膝を支えに頬杖をつく少女はまるで風景に溶け込むか
のようで誰からも気づかれる気配はない。
それもそのはず。
——レンは神出鬼没の仔猫なんだから
女神を仰ぐかのように夫人が陽を見上げたとき、すで
に仔猫の姿は消えていた。
街の灯りが夜を彩り、やがて外がうっすら青みを帯び
る頃。
本棚で仕切られた小さな寝台では赤毛の子供が静かに
寝息をたてていた。
そばには写真立て。ヘイワース家の家族写真だ。満面
の笑みのコリンを夫妻の温もりが包み込むかのような写
真。思わず「ふふ……」と漏らした。
ふと下の階からの気配がして寝台の下に潜る。
足音はレンの目の前で止まった。どうやらソフィア夫
人がコリンの上掛けを直しにきたようだ。
(こんな時間に?)そう思ったレンだったが、とくに気
には留めなかった。
薄い日が射し込みコリンの白い頬を染めていく。浮か
び上がるまっさらで無垢なあどけなさ。
レンはその幼い前髪に触れようとして手を止める。
「姉ちゃん……」そう聞こえた気がした。コリンが吐息
混じりの小さな声をして寝返りをうったのだ。
レンは捲れた上掛けをそっとかけ直した。
窓へ足を向けたとき、ふと今までと部屋の様子が違う
ことに気づいた。
「どういうことかしら……」
写真立てだ。そばにもう1枚写真が置かれている。手
にとって見ればやはり同じ写真……。
でも意味はすぐに理解できた。〝彼女〟はおそらく気
づいていたのだと。
「今のレンは仔猫なんだから……これは貰えないわ、貰
えるわけ……ないじゃない……」
レンは仔猫の足取りで窓から身を翻す。
そこに零れた温もりだけはちゃんと胸にしまって。
レンが何事もなかったようにアカシア荘に戻ると、片
手にティーカップのヨシュアが出迎えた。
「おかえりレン」
そしてもう1人。ツインテールのお姉さんが立ち上が
り椅子を倒す。
「エステルってほんとに分かりやすいんだから……」
「だ、だってレンってば、起きたら突然いなくなってる
んだもん、心配だってするわよ! 熱っ……」
慌ててティーカップを持て余すエステルにヨシュアが
微笑み……。
「ここのとこレンは早起きだったからね。僕は知ってた
けど、エステルは朝遅いうえにいつも寝惚けてるから」
「えっ? そ、そうなの?」
「ふふ……」
自覚のなさそうな彼女にレンはおしゃまに返す。
「今度はエステルも朝のお散歩に連れてってあげるわ」
そして瞳を閉じて思う。
これから先ずっと続くのだろう、こんなやりとりに
(悪くないわね……)と。
やがてエステルの気合と共にアカシア荘を後にする。
「ふふ……女神が笑っているのかしら」
降り注ぐ日差し。仔猫は駆け出す。
彼女を包む陽のある方へ——
そのとき、どこからか鐘の音がして、たくさんの白
い鳩が飛び立った。 |