■ai-sagi
それは劇団《アルカンシェル》が栄える少し前のこと。
ある日の夕刻だった。クロスベルの歓楽街に建つ劇場
では、とある案件が劇団員達の頭を悩ませていた。大々
的な告知を行った舞台の直前、あろうことか劇中歌を担
当する男性演者が喉を痛める事態が発生したのだ。当時
の《アルカンシェル》まだ大きな成功を収めておらず、
この舞台は今後への《賭け》でもあった。公演を取り下
げることは《アルカンシェル》への評価を著しく落とす
行為であり、それゆえに誰もが中止の言葉を吐き出せず
にいた。日が沈み、ライトアップによって華やかな歓楽
街がいっそう活気付く。そんな中、一人の旅人がやって
きた。旅人は劇団員達の醸し出す重い空気を察知すると
勝手に楽屋に乱入し、驚く彼らに一目もくれず自分に歌
わせてほしいと言い出した。当然のことながら反発する
劇団員一同。しかし旅人はその自信にあふれた表情を崩
すことなく歌い始める。楽屋に流れたその歌は、かつて
帝国で流行ったものだった。どこに持っていたのかリュ
ートを持ち出し、奏で、歌う。旅人の声は心地のよい低
音で、どこか歌い慣れた雰囲気と時折垣間見える高貴な
仕草は団員の不安を溶かしていった。そしてその後、旅
人の案を呑むか否かで意見が分かれている最中、彼は周
囲の目を盗みつつ衣装のマントをまとい、颯爽とステー
ジに降り立った。事態を飲み込めていない音響と進行の
スタッフは思わず開演のファンファーレを流す。もう駄
目だ。歌声が素晴らしいとはいえ、彼は歌詞を知らない
。もはや止めることも出来ず、団員達の脳裏には劇団の
終焉がよぎった。だがしかし、次の瞬間誰もが息を呑ん
だ。旅人の唇からは正確な音色と歌詞が紡がれ、ホール
いっぱいに広がっていったのだった。情熱的でどこか甘
さを帯びたその声は娯楽に飢えた人々の心を一瞬にして
奪っていった。そして、劇場内の異様な盛り上がりを受
け、劇場の外にいた人々までもが押し寄せた。さらにそ
れを聞いた住人たちが・・・、と、公演が終わる頃の劇
場は人という人で埋まっていた。旅人の熱唱に負けじと
団員達も最高の演技をし、それら全てが絡まりあって公
演は大成功を収め、収益は100万ミラにも上った。だ
がしかし、"ぜひうちの劇団員になってくれ!"と団員
が楽屋に戻ったところ旅人の姿はなく、どこからか現れ
た黒髪の大男が彼の襟首をつかんで引きずり出していっ
たという証言を最後に彼の姿をクロスベルで見たものは
いなかった。その後、彼は「100万ミラの美声」とし
て今でも知る人ぞ知る実話として語り継がれている。
「それにしても、さっきはよく歌えたものだな。」
「ああ・・・。あれはもともと
帝国に伝わる歌劇が元になっているからね。」
あの劇団が復刻すると聞いて観にいったのさ、と、名残
惜しそうにクロスベルの街を見つめる旅人。そしてその
親友を乗せ、列車は帝国へと向かい走っていったのだっ
た。
おわり |